Chigita ブログ

『芸術家としての意匠が、住まいの細部に生きる朝倉彫塑館』

2017.10.22

― 彫塑家 朝倉文夫 設計の西洋建築と日本家屋が調和・融合した空間意匠と造形―

 T&Wで住宅の意匠デザインを担当しております、チーフデザイナーの千北 正(チギタタダシ)です。時節は芸術の秋ともなり、今回は()朝倉文夫 先生の自宅兼アトリエであった、朝倉彫塑館を紹介させて頂きます。
 先月の平成29930()に、北区滝野川のお客様のお宅の敷地・環境調査が午前中で終わり、巣鴨駅構内のレストランで昼食をとるなか、ふと近くの北区中里にある母校の高校時代(聖学院高校)の事を思い出したのでした。近頃、年を重ねてきたことで、思い出話ばかりですみません。それは、今から40数年前の、高校3年生の美術の授業の思い出です。私は美術デザイン系の大学に進学希望でもあり、高校2年まで美術の選択科目をとり、結果、高校3年まで美術の科目をとることになりました。たまたまそのクラスは、美術、書道、音楽の選択科目をとりつづけたもので構成されたクラスで、自称「芸術クラス」と勝手に皆で呼んでいました。担任の先生も、美術科主任の曽我英吉(ソガエイキチ) 先生(東京美術学校。現東京芸術大学美術学部絵画科 卒)でした。その選択科目の高校美術の授業では、毎週の実習の授業のなかに、月一回の校外授業があり、都内の美術館や、展示・展覧会等に連れて行ってもらった思い出です(毎月楽しみでしたが、毎回感想レポート提出でしたが・・・)。
 それが、当時高校生の頃、校外授業で見学させて頂いた「朝倉彫塑館」(台東区谷中:JR日暮里駅西口より徒歩3分)でした。そして、以前のブログでも紹介させて頂きました、()建築家ル・コルビュジエ(仏:18871965)を知ったのもこの「朝倉彫塑館」でした。

 

 当時、高校3年生の見学の際、館内を案内説明して頂いた方(朝倉彫塑塾の門下生で担任の曽我先生の友人)が、アトリエ棟のコンクリートの「打ち放し」や、「屋上庭園(菜園)」の説明の際、フランスの建築家ル・コルビュジエの話を付け加えられて説明されたことでした。朝倉文夫先生とル・コルビュジエ(18871965)は、ほぼ同世代です。                                                                                                                              

 朝倉文夫 (18831964)先生は、明治から昭和の彫刻家「彫塑家」です。号は紅塐(コウソ)。「東洋のロダン」と呼ばれました。

 当時、朝倉先生は、彫塑家でありながら、「アトリエ兼住居」(現:朝倉彫塑館)の設計を自ら手掛け、自分の独創でやる方針で(技術や材料に関してはどんどん取り入れ)形式は全く自分の気儘な線を方眼紙の上に引きながらの設計と監督をし、大工(棟梁:小林梅五郎は、朝倉先生と意気があった8人目の棟梁)や造園、銅板葺きなど、当代の名工が集まって技術の粋を結集して建てられました。そうして、8回におよぶ増改築の後、昭和3年(1928)から7年の歳月をかけ、昭和10年(1935)に、現在の形となりました。

その建築は、当時としては、本来異質であるはずの「西洋風建築:鉄筋コンクリート造」と「和風建築:木造数寄屋造り」の相反する要素が、違和感無く調和・融合し、中庭「五典の水庭」との一体感にまで配慮した独特の空間意匠と造形美が追求されています。
 先日、40数年ぶりに見学した際、多くの海外の見学者も廻覧しており、住居棟の1階の和室「寝室の間」の畳に腰を下ろし(正座して)、日本人の生活目線に合わせつつ、中庭の水庭を観賞する姿が印象的でした。

 

 朝倉先生の記述として残ってはいませんが、「五典の水庭」と呼ばれた中庭は、儒教の五常の教えを造形化した、朝倉哲学が盛り込まれていると思われます。

 

その中庭に浮いているように配置された丸みをおびた5つの大きな海石は、自己反省を託した「仁・義・礼・智・信」に象徴されています。その内容は、

仁も過ぎれば弱(じゃく)となる

義も過ぎれば頑(かたくな)となる

礼も過ぎれば諂(へつらい)となる

智も過ぎれば詐(いつわり)となる

信も過ぎれば損(そん)となる

私の勝手な感想ですが、人間はその生き方に狂いを生ずると迷いもまた多くなり、ものの本質を見極めにくくなることを意味している事なのでしょうか。

また、庭の植物は白梅や山茶花(さざんか)の白い花が占める中、一つだけ百日紅の紅が配置されており、朝倉先生の美意識もうかがえます。また、大きな鯉が泳ぐ池の水は、自然の湧水を利用した日本的で潤いある空間です。

アトリエ棟はコンクリート造で、外部は男性的な荒々しいコンクリートの打ち放しのテクスチュアーを残したままで、墨色のコールタールが全面に塗りたくられたという外装。屋上は、当時としては珍しい「屋上庭園(菜園)」が配されています。そこには、ラベンダーの花や、2本のオリーブの木(当時、朝倉先生自身が植えた)が植えられています。また、その屋上からは、現在は遠くにスカイツリーをみる事もできます。当時すでに、エコな「屋上緑化」が実現されています。

 また、朝倉先生の作品が展示されているアトリエ棟内部の床面(床面積175?:約53坪)にあるピットには、床から地階7.3メートルに電動(大型モーター)の昇降制作台が設けられ、床に立ったままでの制作活動がし易いよう、独自に考案したものです。改修後の現在は、昇降できるように復元されており、実際に昇降を見ることができます。

 そして、3層まで吹き抜けになった、天井高8.5メートルのアトリエ内部は、創作環境として、北側からの安定した自然採光として、ハイサイドライトが大きく配されています。天井や、壁面の入角部分には曲面が用いられ、彫塑を観る際に不要な縦線が背景に出ないように配慮されています。壁と天井のコンクリートの打ち放しの上には、真綿が塗布されており、光・音・温度等を配慮した仕上げが施されています。

又、アトリエに併設された天井高4メートルの書斎の書棚は、天井まで洋書や医学書(解剖学)等を含め、3万冊を優に超えた膨大な蔵書です。当時、朝倉先生は、自分の娘2人を(長女:舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)と次女:彫刻家の朝倉響子)、自宅の膨大な蔵書に囲まれた書斎で、学校へ通学させず、自ら子供たちを教育したとのエピソードを、当時の館内を案内して頂いた方から伺ったことを思い出します。

 明治から昭和の日本彫塑界をリードした彫塑家・朝倉文夫(18831964)先生のアトリエ兼住居であった「朝倉彫塑館」が、「旧 朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定されたことを受け、築80年ほどが経過し老朽化が進んでいたことから、20083月に(朝倉先生の最晩年にあたる昭和30年代後半)当時の建物・庭園の復原を目指し、工事が行われました。 そうして、200911月から4年半に及ぶ「レトロフィット」と言われる保存修復と、耐震改修工事が201310月に、約6億円をかけて終了しました。

朝倉先生が57年間にわたって住み、自らの創作活動と後進の指導の場(朝倉文夫彫塑塾)として使い続けた同館。その建築は本来異質であるはずの西洋建築と和風建築の要素が、違和感無く調和・融合し、「中庭」との一体感にまで配慮した独特の空間意匠と造形が追求されています。朝倉先生の没後、本人の遺志を受けて、現在でも一般公開されています。

今回、私自身が40数年ぶりに改めて見学してみて、朝倉文夫 先生は、彫刻創作へのこだわりに留まることなく、自ら設計したアトリエ兼自邸と中庭の水庭の隅々細部まで、こだわり創り上げた空間や素材の取り合わせを含み、彫刻(彫塑)作品とともに、その価値あるものに、一層深い感嘆の美を強く抱いた次第です。そして、朝倉先生は、いくつになっても、何事にも創作家として、独創性と探究心旺盛で、内面から迸る真の美しさを追求する姿勢と、教育家としての謙虚さを有した、教え育む姿勢に、尊厳と敬愛の念を抱く次第です。そして、朝倉先生は「猫」をモチーフにした作品が大変多く、その温かい「愛猫家」としての人柄がうかがえるのでした。

 今回このブログを更新している際に気付いた事があります。私は高校を卒業後、日本大学藝術学部(日藝)美術学科入学しました。その際、美術学科の主任教授で学科長であったのが、(故)柳原義達 先生でした。柳原先生は日本を代表する彫刻家で、朝倉文雄 先生に師事した弟子です。日藝時代、美術棟1階吹き抜け奥のアトリエで見受ける柳原義達 先生は、背が高く、いつもジーンズ姿で、何か強面の印象が今でも思い出されます。何が縁であるかわかりませんが、不思議な関わりでつながっていること、出会いというものに活かされていることに気づかされた次第です。

 

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